セロリが食べられない

何か思ったこととか思ってないこととか。

24歳男性,初めてアイドルのライブを観て魅せられる

この間初めてアイドルのライブを観てきた.

 

遡ること約10年前,世間では大人数のアイドルグループが人気だった.

その流れに漏れることなく小中のクラスでも「誰が好き」とかそういう話が聞こえてくる.絵に描いたような田舎に住んでいたけれど,"世間"には自分やその周囲の環境が含まれているのかと気付かされた.でも,どうしようもない逆張り人間の僕は「しょうもない」と思っていた.当時のインターネットの世界ではどちらかと言えば叩かれていたようなイメージが強いけど,僕はそっち側の人間だった.

ただ,年を重ねていくとそういうものは段々なくなってきたし,追いかける程ではなくても曲は普通に聴いたりもしていた.

そんな中で,同じくインターネットの世界で見かけた地下ドルの世界に片足を突っ込んだ."多様化"というものがアイドルの世界にも広がっているのか,"アイドル"と聞いてイメージされるような型に囚われない世界はとても面白かった.僕は限界発言を繰り返した結果,「限界オタク」呼ばわりされたが現場には行ったことが無かった.

 

と,ここまでで原稿用紙1枚分くらいの分量を使って「アイドルと僕」について書いてきたけど,今回観に行ったアイドルにハマったキッカケは「芸人を介して」だったりするので若干バラエティタレントか何かだと思っている節があるし時代を約10年遡った意味もほぼほぼ無いです,すみません.

でもこのパターンはよくあるらしい,全国苗字ランキングで言えば「加藤」「中村」のあたり.消費社会を斜めに見ていた人間が消費社会のよくあるパターンからハマっていく,皮肉だ.

地下ドルの現場すら腰が重くて行けなかった人間なので現場に行くことは無いだろうと思っていたが声出しがダメになっているこのご時世,「隣のオッサンの叫び声を聞かなくても良いなら一度見てみたいかも」と思い軽い気持ちでチケットを申し込んでみたら当選した.

 

で当日.バンドのライブと同じで会場周辺にはツアーのグッズを身に着けた人も沢山いたが,オリジナルのうちわとかを持っている人もいて「あ,画面越しでしか見たことないやつだ」と謎の感動をした.

推しの名前が入った特攻服みたいなのは流石に引いた,ごめんなさい.でもそうやって好きな気持ちを真っ直ぐ伝えようとすることが出来るその姿勢は羨ましくもあった.逆張りの代償.

 

光る棒♂を持っていざ入場.

開演前の会場内に流れる曲に合わせて手の振り付けを踊る人達.マズい,そういうの予習してなかった.棒♂も何色にすればいいのか分からない.

双眼鏡の調整をする人達.やっぱりそういうものって必要ですか?

両隣は一回り以上年上っぽいオッサン.失礼だし申し訳ないけどこの人たちの叫び声は聞かずに済むのは救いだった.

 

開演はほぼほぼオンタイムだった.バンドのライブだとちょっと押すことが当たり前のような気がするので驚きもあった.

始まる前は振りがどうとか♂の色がどうとか心配してたけど周りの動きに合わせていたら何とかなった.今回僕の周りに怖いドルオタはいませんでした.双眼鏡はあった方が便利だなと思ったけど,双眼鏡を覗く自分の姿を俯瞰で想像してみたら引いたし別にいいや.

振りがどうとかフォーメーションがどうとか,これまでの歩みがどうとかそういうところにはあまり詳しくないからそういう見方は出来ないし,視力の悪さもあって同じ衣装を着ているうちは誰が誰だかほぼほぼ分からなかったけど,好きな曲が聴けたりソロパートみたいなので各メンバーのパフォーマンスがちゃんと見ることが出来たり会場内の♂がやたらと綺麗だったりと観た価値は十二分にあった.

こんなんだったらもっと早く行けばよかったな,声出しできない今のうちにたくさん見ておきたいなと思い,家に帰ってから次のライブに申し込みをした.

 

今回害悪オタクには出会わなかったし,アイドルにハマる人の気持ちも分かったし,そういう体験の中で何かを頑張ろうと思えるのならいいものだなと思ったけど,唯一嫌だなと思った瞬間といえばライブ中に作詞者がオッサンであることを思い出してしまった時ですかね.

言葉の選び方

最近は特に「話し手の意図以上に受け手がどう感じるかが問題」というのを肌で感じることが多いから,言葉の選び方には気を付けるようにしている.そういう姿勢は大事だと思っているし,「実際に思ったことだから」といって無神経に色々言っていいものでもないと思う.

 

ただ,自分の場合を考えてみた場合「考えすぎかな」と思うことが多い.

すごくシンプルに考えてみれば気を遣えるに越したことはないと思うけど,行き過ぎた気遣いもどうなんだろうと感じることがある.

いくら気を遣っても意図しない伝わり方とか(考えすぎ故に)流れに適さないような返し方をしてしまうことはたくさんあるし,そういうときは謝ったりするように心掛けてはいる.

でも「普段から気を遣える人」だと思われていれば思われているほど小さなミスが与える不信感みたいなものは大きい気がするし,そういうミスを巻き返そうとしてもうまくいかないことも多くて,行き過ぎた気遣いは負のループにもなり得るのかなぁと感じることがある.

 

発言に対する反応が微妙だと特に何を言われたわけでもなくても「あれやっぱよくなかったかな」という思考が止まらなくなってしまう.

小さいことでも何でもはっきりと言ってほしいものだけど,自分自身も相手が誰であれ「言うほどのことじゃないな」と内側に溜め込んでしまうタイプの人間なのであまり強くは言えない.

だからといって考え続けて「こうかな」と推測できたとしても,それが正しいかどうかなんて分からない.

自分自身については「察してくれたら嬉しいなぁ」と思いながら人に対しては「はっきり言ってよ」と思う,という矛盾したようなものを抱えている.

 

 やっぱり人間関係は疲れてしまう.いや,人間関係そのものではなく,気を遣いすぎてしまう・考えすぎてしまう自分自身に疲れてしまう.

僕自身は別に人間嫌いという訳でもないと思っている.確かに人間はクソみたいな欲望を持ってるし,他人のミスは許さないくせに自分のミスは軽く見ようとするし,クソな面も多い(自分自身もね).

それでもそういうものを差し引いた結果いいなと思える人もたまにいるから,そういう人にこそ気を遣える人間になりたいなと思う一方,そういう人が相手だからこそ考えすぎて対話そのものを楽しめない.

 

自分に足りないのは気遣いすることされることに対する多少の鈍感さ,或いは楽しむことに対する敏感さなのかなと思うけど,思っただけで何とかなるなら誰も苦労しないよね.

見えない言えない聞こえない

最近は特に"人を見かけで判断してはいけない"みたいな価値観が当たり前になってきている.僕はそういうものを否定するつもりはないし,確かに見た目から中身が分かるわけでもない.

ただ,外見以外の判断が正しいかと考えると意外と分からないものである.

どんなことであれ,自分から見てみると良いと思えるものも,他の誰かから見れば害でしかないというのはよくあるもので,絶対的な良し悪しを付けることができるのは犯罪くらいなものである.まぁ,同情できるものもあるけど良いか悪いで言えば悪い.

良かれと思ってやったことが結果的に他人の邪魔をすることになるというのもよくある話である.

 

僕は"幸せは誰かの不幸の上に成り立つ"と考えている.

例えば今朝食べたご飯も原料含めて誰かが辛い思いをしながら作ってくれたものかもしれないし,昼間利用した店の店員さんも「来るなよ」と思いながら接客をしていたのかもしれない.僕が大学に通えているのも両親が嫌な思いをしながら仕事をしてくれているおかげかもしれない.

もちろんこういったものは極端な例であって必ずしもこうなっているとは限らないし,食事を有り難く頂けば,接客に対して丁寧な対応を取っていれば,そんな風にはならないかもしれない.大学に通った結果,何かを還元できれば苦労してよかったと思ってもらえるかもしれない.

それに,誰かが不幸にならなきゃ幸せになれないのかと言われれば"好きな人の笑顔を見て幸せになる"とか幸せの上に成り立つ幸せもあると思う.

ただ,そうではないものが無視できない数あるのもまた事実だと思うし,"幸せ"が絶対的なものでない以上どう生きようが結果的に誰かを不幸にしてしまうなんてことは十分に起こりうる.

自分も数えきれない数の人々を不幸にしながら生きてきたと思うし,その分誰かを幸せにしたかと聞かれると多分できていない.

 

 

結局"人間の中身"も"幸せ"も見る人感じる人によって違うから,大多数の人に当てはまることも目の前にある事態に当てはまるかどうかは分からない.

そういう意味では自分の周りには"死への恐怖"なんかより"生への恐怖"の方が圧倒的に多い."ありのままの自分"でいることで誰かを傷つけるかもしれない,傷つけないようにしていたつもりだったのにかなりのストレスを与えていたかもしれない.謝って済むこともあれば取り返しのつかないことになるかもしれない.その分以上に誰かのためになるかも分からない.

"死への恐怖"を感じることもまぁあったけど,あらゆる面で安全になってきている現代でそう何回も経験するものではないし,"三途の川を見た"とかそういうレベルの経験もない.だから生きていることへの感謝も正直ないと思う.

 

僕が10年以上どれだけ幸せになろうと当たり前のように死にたいと思い続けてきた理由かもしれない.

文字おこし

何もしたくないと思った時には自分の言葉を吐き出してみようのコーナー。

 

最近異様に焦りを感じているような気がする。それが何に対するもので何で最近なのかは分からないけど、ただひたすら今日だけを生きてきたここ数か月の忙しさが少し抜けたからなのかもしれない。またここからやること増えていくのだけど。

大学の授業をめんどうに感じることが無いといったら嘘になってしまうのだけど、何やかんやサボらずに行っている。だから忙しい。出てくる課題を処理していくだけの日々。たまにやる気を出して早めに片付けたときなんかは、「やったー」なんて喜びながら読みたい本を読んだりしてみるのだけれど、次の日に大学に行ったらまた新しい課題が出てくる。その頃もうやる気は起きない。これの繰り返し。

気づいたら何かに追われている感覚とともに休日を過ごしている気がして、休まっている気がしない。「ここに行ってみたい!」も溜まってはいくのだけど、いつになっても「ここに行ってみたい!」のまま。誰だよ、大学生活が人生の夏休みだって言った奴。

12月末にバンドの関係で行った東京。Suicaの履歴を見たらもう3か月も電車に乗って遊びに行っていないことに気付いた。何をしていたんだろう。半年前なんて休みがあったら近くも遠くもどこかしらに行っていたのに、今じゃ何もしたくないとぐったりして、せめて外には出ようと近所のスーパーで買い物をするだけ。未だに出来上がった弁当を買うということはしていないし、年末年始にインフルで寝込んでいたとき以外はほとんど毎日家から出ていた。そこだけは褒めたい。

ギターもずっと大好きで続けてきて、人生でこんなに続いたもの無いんじゃないかってくらい続けてきて、だけど最近はギターを弾く気力も湧かない日々で、バンドをする度に自分の無力さを思い知らされる感覚もあって、純粋な「楽しい」以外に変なものが混ざってくる。だけど自分以外の人がバンドをやっている姿を見るのは好きで「やっぱりやってみたいな」なんて思うのだけど、家に帰るとそんなモチベーションはもうどこにもない。たまに弾いて「楽しいな」なんて思っても、次の日には課題をやっているかぐったりしているか。

 

ふと冷静になって考えてみる「将来」。「学部卒じゃ将来社会に出ても何もできない、修士は欲しい」とか「院に行ってもっと知識を付けたい」とか、それらしい言葉に「就職したくない」という感情を隠して先のことを考えている。

やりたいこと、行きたい所はいくつもあるのに肝心の「こんな仕事をしてみたい」はどこにもない。どこかに個人スタジオが欲しい、サーフィン、スノーボード、バイクとかに手を出したい、国内外問わずいろーんな場所に行ってみたい。これだけ夢があるのに仕事の夢だけはどうしても出てこない。「こんな仕事したくない」はいくらでもある。「きっと誰もがそうなんだろう、いろいろ試してみて自分に合うものを探していこう」なんて言葉の裏にある不安は見ないようにしているのに目についてしまう。

「年老いて使えない体で生きるくらいなら早死にしたほうがマシだ」というスタンスで「長くても30歳までかな」なんて考えていたけども20歳を超え、「人生100年時代」という言葉とともに考え直さなければいけないのかなんて焦ったりもする。

 

いつか「人間の悩みは『過去への後悔』か『未来への不安』どちらかからのみやってくる。だから今に集中するといい。」なんていうのを見たことがあった気がして、その時はただ「ほーん、なるほど」なんて納得していた。

今まさにそんな感じなのかなとふと思った。『今』を必死に生きてきた過去の自分の積み重ねが生み出したもの、それは己の無力さで、自分に足りないものを考えると多すぎて、未来を想像してもそこに明るさは無かった。でも、悪いところばかり気になってしまっているだけで実は視点を変えてみるだけでいいことなんていくらでもあるだろうし、きっとギターだって純粋に楽しめる。ちょっと視点を変えてみること、それが出来るのは『今』なんだなという感じ。ギターみたいに大好きなものでも、様々な要因で「あれ、楽しくないかも」なんて思ってしまうこともあるのだけど、ネガティブに考えすぎて楽しみとかを逃してしまうのはもったいないなぁと。かと言って難しく考えてしまうのも良くないのでゆっくりやっていこうかなと。今までもそうやって何とかなってきたし。

思えば、必死に今日だけを生き続けてきたここ数か月、外食したときに食べたものは値段にかかわらずいつも以上においしかった。人と食べたから尚更。

 

何が言いたかったんだろう。